年表
六九七年
〈文武元年〉
行基菩薩が仏法興隆のため、現在の通仙園(つうせんえん)の山上に開基し八幡院と称した。
七〇一年
〈大宝元年〉
鎮守として本荘八幡宮を勧請。(宇佐八幡宮を分祀)
七八〇年頃 【由加山鬼退治の伝説】
延暦年間、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は桓武天皇より由加の山奥で村人から鬼と恐れられていた阿久良王(あくらおう)と称する者の討伐の勅命を受け、海路通生に上陸この地に陣を構え由加に通った。阿久良王は妖術を持っており容易に討ち取ることは出来なかったが、当寺御本尊に祈願を込め漸く討伐の偉業を成し遂げた。
「神宮寺因由」によれば『田村麻呂将軍由加に通い給い悪鬼治罰以後は万民生命安全なるが故に通生村という』とあり、この地より由加にい、児島の人びとの命を救ったことが「通生(かよう)」の地名の由来とされている。
八〇八年
〈延暦二十三年〉
空辧住職代、征夷大将軍となった田村麻呂は、仏恩報謝のため田畑五十町を免許し、本堂を寄進、阿弥陀三尊・薬師如来・地蔵菩薩を安置し伽藍を整備した。後に制度改まり、五十町の免許は百八十石の御朱印となる。
湯谷山観音堂(奥の院)建立。
田村麻呂がこの谷で水行をしたところ、冷水が湯に変わったということから湯谷山と名付けられた。五流尊龍院との密接な関係があり、別名「湯谷山熊野寺」とも云われ、修験者の行場として多くの信者を集めた。
一一七九年
〈治承三年〉
【備前国通生荘(かようしょう)】
六月、平清盛は厳島詣(いつくしまもうで)を行ったが、同じく参詣した前太政大臣藤原忠雅はその途中備前国通生荘に立ち寄ったという記録があり、通生荘の存在を知ることができる。
通生荘の荘域は、現在の児島半島南西部一円(宇野津・塩生・通生・菰池・下津井・田之浦・吹上・大畠・赤崎・味野周辺)であり、本荘と新荘に分かれていた。
一二六二年
〈弘長元年〉
度重なる兵火により御朱印を失い衰退を極めていたところ、時の住職寂辧は再興を計り、鎌倉幕府に窮状を訴えた。
一二七九年
(弘安二年)
漸く八十石の御朱印を拝領、諸堂宇を建立。このことにより寂辧は延暦年間の空辧より数えて二十六代目であったが、中興(ちゅうこう)の祖『中興第一世』とした。
一二八六年
〈弘安九年〉
【大般若経の伝説】
寂辧が国家の安泰と仏徳を倍増するには、大般若経読誦に優るものなしと願っていた折りも折り、三月十五日夢告げにより水島灘で漁師の網にかかった大般若経二百巻・十六善神絵像・鐃鉢(何れも現存)が当寺に納められた。このことから八幡院を般若院と改めた。(絵本「銀のつづら」と岡山県の民話「金浜の伝説」はこの伝説が元となっている。)

同年、本堂観音堂改築。

大般若経を感得した寂弁は、大般若経の修法により旱魃(かんばつ)の際には雨を降らせ、疫病を退散させるなど、人びとの生活と密着した宗教活動を展開した。
一二八七年
(弘安十年)
本堂・新御堂を改築し本尊の阿弥陀如来を奉安した。
一三二八年
〈嘉暦三年〉
中興第二世権大僧都幸善、護摩堂建立。
一三四四年
〈康永三年〉
中興第三世大法師源西晋山。
一四〇六年
〈應永十三年〉
中興第四世律師照海、仁王門・御影堂建立。
一四二一年
〈應永二十八年〉
松井紀義泰(通称帆網藤重郎・塩生村)の三十三歳の厄払いとして、石の鳥居(国指定重要文化財・現存)・二間四面の山王権現堂・千体の馬頭観音像鋳造、それを祀る千仏堂・別業所を寄進した。
永享八年(一四三六年)、奥の院観音堂再興。
翌年、稲荷社再建。
永享十一年(一四三九年)、大般若経修復。
一四四九年
〈宝徳元年〉
中興第五世法印幸算、両界曼荼羅修復。(現存)
応仁十二年(一四七八)、本太(もとぶと)城主(じょうしゅ)源政縄、政吉兄弟によって社殿が破壊された。ところが本殿に及ぶと俄(にわか)に雷鳴動が起こり、両人は神罰を恐れて退き、四年後破壊した社殿を修復した。
一四五五年
(康正元年〉
中興第六世権大僧都幸譽晋山。
一四八四年
〈文明十六年〉
中興第七世権大僧都宥譽晋山。
一四九五年
〈明應四年〉
中興第八世権大僧都法印長慶晋山。
一五〇三年
〈文亀三年〉
中興第九世権大僧都増宥晋山。
一五一九年
〈永正十六年〉
中興第十世権律師宥尊晋山。
一五二六年
〈大永六年〉
中興第十一世大法印宥賢晋山。
一五五四年
〈天文二十三年〉
中興第十二世権大僧都法印幸眞、十一月八日から二十一日まで伝法潅頂奉修。湊山(みなとやま)城主(じょうしゅ)山田源次郎より米七石・白銀二枚の寄進を受ける。同じく当寺に信仰の篤かった常山(つねやま)城主(じょうしゅ)三村上野介高徳と内室鶴姫より米十石・白銀五枚・鳥居の寄進を受ける。
同十八日、鶴姫並びに侍女三十一人、侍三十五人結縁潅頂入壇。
弘治二年(一五五六)、三月二十一日、鶴姫の弟松之丞は幸眞に従い剃髪(ていはつ)、幸勢と名付く。
一五七五年
〈天正三年〉
【常山合戦の煽(あお)り】
中興第十三世権大僧都法印幸勢代、毛利勢(吉川・小早川勢)が常山城に立て籠もる三村氏を攻めるため、児島一帯の城を攻めた。五月二十二日戦禍のため当寺は経蔵を残して一山悉く焼かれ、八十石の御朱印も焼失した。幸勢は阿弥陀・薬師の二躰を目篭に入れ、備中阿弥陀院(宝島寺)へ逃れた。(この時湊山城も焼失した。)
幸いに難を逃れ現存しているのは、本尊阿弥陀如来、十一面観音などの仏像・仏画・仏典・山王権現の御神体・千仏堂の馬頭観音像などである。
翌年の涅槃会は菰張りの仮屋で奉修した。
常山落城後、幸勢は常山城主夫妻、湊山城主夫妻に法名を授け供養した。(常山城主夫妻の法名は常光院高月徳本禅定門、常鶴院超山本明信尼。湊山城主夫妻の法名は、超頓覺壽居士、林月常遊信女であった。)
一五九五年
〈文禄四年〉
中興第十四世権大僧都法印頼誉は十月五日仁和寺に赴き復興を図る。
一五九六年
〈慶長元年〉
中興第十五世禅宥僧正、当寺復興のため御室仁和寺塔頭(たっちゅう)の皆明寺より晋山(しんざん)。寺域を現在の地に移し、別業所を建て住居とし「御室田(むろうた)」と号し、山号を「新(しん)御室山(おむろざん)」と改めた。この時より仁和寺の寺紋である「桜二引」の使用を許可され寺紋とした。
天然記念物の「般若院の椿」はこの頃のものと思われる。
慶長四年(一五九九)、八月八日ラントウ(家型墓)建立。「為茂林常般菩提也」と刻字。(県下最古・現存)
一六〇六年
〈慶長十年〉
中興第十六世権大僧都法印増俊代、池田河内守より二十五石のお墨付を拝受。(明治維新まで続く)
一六二五年
〈寛永二年〉
中興第十七世権大僧都法印長昌晋山。
一六四二年
〈寛永十九年〉
中興第十八世権大僧都法印宥秀代、高室に王子権現勧請。
正保元年(一六四四)、天城藩家老徳山佐兵衛の世話にて大池築造。
承応四年(一六五五)、下津井那須円斎、巨鐘を寄進。
一六六七年
〈寛文七年〉
中興第十九世前左学頭磧範代、神仏分離により二十五石の内十五石は神職に与え、千年の永きに亘って続いた本荘八幡宮の別当(べっとう)職(しょく)を辞め、宮と寺は分離した。(左学頭とは高野山の学事を司る僧の役名)
中興第二十世法印宥遍晋山。(経歴不詳)
一六七四年
〈延宝二年〉
中興第二十一世宥深晋山。
一六八二年
〈天和二年〉
行算涅槃像修復。(現存・施主味野村山本清助、西原仁兵衛)
貞享二年(一六八五)、瓦寄進。「瓦大工岡山関市左衛門 備前國児嶋郡通生山第廿二世住持権少僧都行算 貞享二乙丑年三月十五日 瓦寄進都合一萬 施主徳山氏」と銘あり。(現存・行算は廿二世とあるが血脈によると一代とされていない)
一七〇二年
〈元禄十五年〉
中興第二十二世前左学頭辧仙、客殿再建。(現存)
中興第二十三世恵雄晋山。(経歴不詳)
一七〇七年
〈宝永四年〉
中興第二十四世空算晋山。
中興第二十五世法印雄典晋山。(経歴不詳)
一七〇八年
〈宝永五年〉
中興第二十七世法印海辨晋山。
一七一三年
〈正徳三年~享保五年〉
中興第二十六世阿闍梨覚勝、八年の歳月をかけ大般若経六百巻を書写。(現存・大般若経書写の功績により二十六世とした)これらの経典を納める経蔵・土蔵建立。
一七三六年
〈元文元年〉
中興第二十八世辧貞晋山。
一七五一年
〈宝暦元年〉
中興第二十九世法印辨典、庫裡再建。
宝暦四年(一七五四)、半鐘鋳造。施主長畠牧野定平次、作者京都寺町白木屋廣盛子。
宝暦五年(一七五五)三月、伝法結縁両潅頂開壇。
一七七四年
〈安永三年〉
中興第三十世法印隆海、伝法潅頂開壇。以後、伝法結縁両潅頂数度開壇、三宝院・中院・西院の三流の伝授開筵。
天明四年(一七八四)、二月二十一日、高祖九百五十年御遠忌奉修。
一七八四年
〈天明四年〉
中興第三十一世不染晋山。
隆海再び住職となり寛政十二年(一八〇〇)、本堂再建。(現存)
一八〇四年
〈文化元年〉
中興第三十二世法印如幢、八月伝法潅頂開壇。
一八一〇年
〈文化七年〉
中興第三十三世法印現心、伝法潅頂開壇。以後、伝法結縁両潅頂数度開壇、三宝院・西院の二流の伝授開筵。納屋・上下土蔵・別業所再建。潅頂道具・聖教・器物・田畑等購入。
一八二九年
〈天保十年〉
中興第三十四世法印深海、九月伝法潅頂開壇。以後、伝法結縁両潅頂数度開壇、三宝院・中院・西院等諸流の伝授開筵。高野山竜生院兼務。潅頂道具・聖教・器物・田畑等購入。
吉祥院・文殊院を兼務しそれぞれの客殿を再建造作。
児島八十八カ所霊場第三十五番札所となる。
一八六三年
〈文久三年〉
中興第三十五世深雄晋山。高野山にて多くの事績を残す。
一八七九年
〈明治十二年〉
中興第三十六世法印圓海、山門改築・客殿土塀修復・穿井(せんせい)など後嗣を利すること大。
「本山」を姓とする。
一八九五年
〈明治二十八年〉
中興第三十七世僧正義猛晋山。天資豪快、名利を意とせず和漢の典籍を備中犬養塾に学び諸芸を能くする。言行尋常ならず近代の傑僧、稀人と言われた。布教にも長じ十代にて全国に法莚を敷き、今弘法として帰依された。
明治三十年、開基千二百年祭奉修。(大檀那貴族院議員従六位野崎武吉郎、供養塔寄進。)
大正元年、義猛が「通仙園」と命名。(昭和二十五年国立公園に指定)
一九三二年
〈昭和七年〉
中興第三十八世大僧正完海晋山。
昭和十二年、奥の院観音堂再建。
昭和二十年、農地改革により田畑を悉く失う。
昭和五十三年真言宗御室派宗務総長就任。
同年定額位拝命。(定額位とは、国家安泰と世界平和を祈る真言宗最高の儀式である「御修法」に出仕できる資格)
昭和五十八年岡山県仏教会会長就任。
昭和五十九年全日本仏教会評議員就任。
昭和六十年大僧正拝命。
昭和六十二年庫裡改築。
一九九〇年
〈平成二年)
中興第三十九世瑞峰晋山。
平成九年、開基千三百年祭奉修。
平成十六年、庫裏屋根改修・看経堂再建・参道改修。